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取材ノート〜こぼれ話
 暮らし・仕事に示唆を与える名言・金言を独自の切り口から紹介するエッセイ
 /お茶の水女子大学名誉教授 外山滋比古
 

 日本人のしゃべる英語に、むやみと I think が出てくるので、向こうの人が、日本人はみな哲学者なのか、とからかったという話がある。日本人の I think は、ただ、「思います」「でしょう」くらいの軽いことばで、考えずに話しているのである。

 そこへいくと、欧米の“考える”はかなり重い意味をもっている。それだけの文化的背景もある。

 フランスの17世紀、デカルトは「われ考う、故にわれ在り」(cogito ergo sum)〔ラテン語〕と宣言した。もっとも早い近代的思考、思弁の自覚であったとしてよいであろう。思惟こそホモ・サピエンス、人間の存在条件であるというのである。

 そのデカルトにすこしおくれて、やはりフランスのパスカルが『パンセ』の中で「人間は自然のうちでもっともか弱い一本の葦にすぎない。だがそれは考える葦である」と、やや文学的にのべた。

 葦は風が吹けばそよぎ、嵐になれば折れて頼りないが、人間という葦は考えることができる、とパスカルは胸を張った。だからといってヨーロッパの人がすべて考える葦だったわけではない。哲学者の自負である。

 我々日本人は、思われる、思う、考えるの区別がはっきりしない。思考は心情的、情緒的で、一生の間、一度も本当に考えたことのない葦が、豊葦原瑞穂の国には、はびこっている。
(初出:月刊『悠+』2007年4月号)


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